故宮博物院
先日『北京故宮博物院200選展』を見てきました。宮廷絵画や青銅器、玉器など数々の皇帝コレクションを見てるうちに、私も北京故宮に行ってみたくなっちゃいました!というわけで故宮や北京がどんな所か調べてみました。
故宮博物院(こきゅうはくぶついん)は、中華の歴史的遺物を所蔵・展示している中国(中華人民共和国)と台湾(中華民国)に存在する博物館である。
以下の3か所にそれぞれ施設がある。
- 中国北京市 - 故宮博物院(紫禁城)
- 中国瀋陽市 - 瀋陽故宮博物院
- 台湾台北市 - 国立故宮博物院
沿革
故宮博物院は、1924年に北洋軍閥の一人である馮玉祥が溥儀を紫禁城宮殿から退去させ、1925年10月10日に宮殿内で清朝が持っていた美術品などを一般公開したのが始まりである。1925年当時の所蔵品点検レポートによると所蔵品総数は117万件を超えており、博物院は古物館、図書館、文献館を設けて各種文物の整理をする一方で、宮殿内に展示室を開設して多様な陳列を行なっていた。
その後、満州に駐留していた日本軍が華北地方に軍を派遣してきたため、蒋介石の国民政府(1948年からは中華民国政府)は博物院の所蔵品を戦火や日本軍から守るべく重要文物を南方へ疎開させ、1933年2月から5月までの間に1万3,427箱と64包に及ぶ所蔵品が上海経由で南京市に運ばれた。国民政府は南京市内に所蔵倉庫を建てて 故宮博物院南京分院を設立したが、1937年に日本軍が南京に向けて進軍してきたために、所蔵品は再び運び出されて四川省の巴県・峨嵋山・楽山の3カ所に避難させられた。
第二次世界大戦後、運び出された所蔵品は重慶を経て再び南京・北京に戻されたが、国共内戦が激化するにつれて中華民国政府の形勢が不利になったため、1948年の 秋に中華民国政府は故宮博物院から2,972箱に及ぶ所蔵品を精選して台北へと運んだ。これによって誕生したのが台北市の國立故宮博物院であり、現在故宮 博物院の所蔵品は北京と台北の2カ所に別れて展示されている。これとは別に所蔵品の一部は、国共内戦後の中華人民共和国建国後の混乱のため北京に戻すこと ができず、現在も南京博物院の管轄の下南京に保管されている。
なお、瀋陽の故宮博物院は、元々が後金の小規模な宮城であった瀋陽故宮に置かれており、主に後金・清時代の文物・美術品が展示されている。
馮玉祥
馮 玉祥(ふう ぎょくしょう)は中華民国の軍人。北京政府に属し、当初は直隷派であったが、後に国民軍を組織し、その指導者となった。北伐に際しては五原誓師を行い、全軍で中国国民党に加入、国民革命軍(国民政府)に参加している。旧名は 基善。字は 煥章。祖籍は安徽省廬州府巣県(現在の巣湖市)。
1925年の秋、馮玉祥は中野正剛と会見し、ロシア革命や東アジアの歴史・政治情勢について互いに議論した。この会見は、当初察哈爾省の張家口で会う予定としていたが、馮は漢口を拠点にしていた呉佩孚の北伐軍を怖れて中野に置き手紙をして平地泉に逃亡し、さらに中野が平地泉に着いたときには馮の姿は無く、包頭鎮でようやく会えたという。中野は馮が議論で対抗できなかったとし、さらにこれを臆病者と見なしている。
馮玉祥は土方のような姿をして兵卒といっしょに畚(もっこ)を担いだりすることがあり、下からの人望が厚かったという。
中国 北京市
北京市の故宮博物院 (簡体字:故宫博物院) は、もとの宮殿(紫禁城)であった所を博物館にしている。
一般入場料は40元(4月から10月は60元)。留学生のみ学生証によって学割が適用される場合があるが基本的には外国人は子供も一般料金が適用される。120cm以下の子供は外国人を含めて無料。「珍宝館」および「鐘錶(時計)館」はそれぞれ別料金(10元)である。敷地内は広大で、売店や軽食堂がある。また多くの言語の音声ガイドサービスが用意されていて、中には人工言語のエスペラントまである。等級は中国国家一級博物館に分類されている。
現在は故宮博物院の敷地外となっている天安門や端門への登楼も有料で可能であり、正門である午門の前にも民営の小さな展示館がたくさんある。
文献
- 『故宮博物院』(全15巻、日本放送出版協会、1997-99年)
1990年代後半にNHKスペシャルで『故宮博物院』が放映された。
中国国家一級博物館
国家一級博物館は、中華人民共和国国家文物局が認定する博物館の等級区分のひとつ。
2008年2月から作業が始められ、29省から149館が推薦されて、専門家による審査が進められた。国際博物館の日にあたる同年5月18日、国内83の博物館が認定された。他の区分では、国家二級博物館171館、国家三級博物館288館がある。2008年に公共の博物館・記念館・愛国主義教育施設の入館料無料化の通知が出され、多くの博物館で無料開放が実施されている。
中国 瀋陽市
遼寧省瀋陽市瀋陽路171号にあり、1926年に創立した。
博物館は敷地面積が7000平方メートル、収蔵されている文物は数万点あり、いずれも清朝の宮廷の歴史、宮廷の生活を反映した実物や資料であり、典 制文物・宗教関係の文物・書・絵画・磁器・刺しゅう・碑刻などが含まれ、そのなかには国宝級の収蔵品も数多くある。博物院の展観として、「清朝宮廷の原 状」、「宮廷歴史文物」、「清代芸術品展」などがあり、清朝の前期の宮廷の遺物を主とし、2239点の文物・資料が展示されている。
2004年、瀋陽故宮はユネスコ世界遺産(文化遺産)に「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」として指定された。
台湾 台北市
台湾(中華民国)の 国立故宮博物院は、台北市北部の士林区にあり、付近には高級住宅街が広がっている。この博物院には中華民国政府が台湾へと撤退する際に故宮博物院から精選して運び出された美術品が主に展示されており、その数が合計60万8985件冊にも及ぶことから世界四大博物館のひとつに数えられている。博物院では3カ月に1回の割合で展示品の入れ替えがあるが、全ての展示品が入れ替わるわけではないので、全ての展示品を見るためには、200年余りかかると言われている。
現在では台湾南部の嘉義県にある台湾高速鉄道嘉義駅の隣にアジア文化をテーマとした 南部分院が2013年完成を目標に建設工事が進められており、博物院の機能の分散化が図られている。
この博物院は、1960年代から1970年代に中華人民共和国で起きた文化大革命における文化財の組織的破壊から、貴重な歴史的遺産を保護するという役割を担ったが、同時に中華民国政府が中国(China)の唯一合法的な政府であることの象徴と、日本の統治から離脱したばかりの台湾において中華ナショナリズムを強調するための装置としても中華民国政府に利用されていた。そのために現在では、早期の台湾独立を求める泛緑連盟勢力の一部から「『台湾国独立』と引換えに故宮博物院の文物を紫禁城に返そう」という主張が出ているが、実現の可能性はほとんど無い。
2001年より大規模な耐震・改装工事が行われ、館内の一部が閉鎖されていた。工事は2006年12月末に完了し、2007年2月8日より全館が一般公開された。
関連文献
- 『台北国立故宮博物院を極める』(板倉聖哲・伊藤郁太郎編、新潮社「とんぼの本」、2009年)
- 『台北故宮博物院』 (平凡社「別冊太陽」、2007年)
- 『国立故宮博物院案内』(清水仁編、郁朋社、改訂版2006年)
代表的な所蔵品「翠玉白菜」
翠玉白菜(すいぎょくはくさい中国語: 翠玉白菜; ピン音: Cuìyù Báicài; 白話字: Chhùi-ge̍k Pe̍h-chhài)は、ヒスイ輝石を、虫がとまったハクサイの形に彫刻した高さ19センチメートルの美術品。現在は台湾台北市の故宮博物院に納められている。
翠玉白菜の大きさは高さ18.7センチメートル×幅9.1センチメートル×厚さ5.07センチメートルで、手のひらよりやや大きいぐらいである。
上部は白菜の色を再現しているが、これは人工着色ではなく、石に元から付いていた色を生かしたものである。原石は、半分が白、半分が緑のヒスイ輝石であり、原石には空洞などの欠陥箇所もあるが、この彫刻ではそれが白菜の茎や葉の形にうまく活かされている。葉の上にはバッタとキリギリスが彫刻されており、これは多産の象徴と考えられている。
歴史
この彫刻の作者は伝わっていない。
この彫刻は、元々は光緒帝の妃である瑾妃(中国語版)の住居、永和宮(紫禁城中)にあった。瑾妃が嫁いだ1889年に初めて世に現れたことから、瑾妃の持参品と考えられている。
1911年の辛亥革命で清朝が倒れてからは、紫禁城跡に作られた故宮博物院の所蔵品となった。1933年に日本軍の進出を避けて上海に移され、その後たびたび場所を移動した後、1948年に国共内戦のあおりを受けて台湾の故宮博物院に移され、現在に至る。
特徴
翠玉白菜は故宮博物院の「最も有名な彫刻」と言われており、清明上河図、肉形石(中国語版)と合わせて故宮博物院の三大至宝とされている。(ただし翠玉白菜と肉形石は台北市の故宮博物院に、清明上河図は中国北京の故宮博物院にある。)
台北市の故宮博物院では、この彫刻のおもちゃが土産として売られている。2009年、このおもちゃが中国製であり、中国からの観光客がわざわざ買って帰っていることについて、台湾で「恥ずかしいことである」として問題にされたことがある。